レモン哀歌

あなたはレモンを待っていた

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December 1

最近、入力する時の打ちごたえが気持ちよく感じます。特にさりげなく何か短い文をキーボードで打っていると、ちょっと気持ちがすーとなります。

3月になりましたね。えっと、厳密に言いますともはや3月中旬になりました。今年の四分の一が去るのもあっという間の話です。

さて、何について今キーボードを打っているかというと、最近の自分も知っている人もどんどん変わっているのを感じたからです。例えば、六人のグループに一人が抜けました。もともと彼とは比較的に話が多くない方だが、抜けた時に私だけに知らせたことに、私は少しずるい慰めに似た揺さぶれをもらいました。確かに、みんなも分かっていると思いますが、私たち六人は性に合わない輩ですよ。でも、一時の気分でこの縁を永遠に切る決断を下すことは、なんというか、軽率さを感じられますよね。この時代は、SNSのドア一つで人生においての糸が途切れるかもしれないものなのに、つまり彼は私たちを見放ったということになりますね。

それから、昨日の夜にもうひとりの友達と電話をしました。この人の変化が一番に見られますね、正直に言いますと。ずっと彼を見てきて、そして自分もその転換に手を加えたかもしれない自分もいますから。どんどん分からなくなってきたのです。自信を持っているか、それとも自信がなさすぎるのか、人を否定することだけに妙にこだわりがなく、あまりにその基準がはっきりとしないのです。よく言えませんが、少しだけ、よく知らない人と分野に対するケイベツさが感じられました。なにせ知らないものに口を出すには大した自信が必要じゃないですか。でも後に「いいな不公平だな」と言いますが、一体いいと思っているの?良くないと思っているの?自分の手にカードを握っていても、それでも人のことを羨ましがるのは、本心?見せつけ?昔はね、私は彼があまり自信がないというふうに評価しますが、今は何とも言えません。だって、おかしいもの。

このまま書いてしまうと愚痴るようになってしまいます。私は、全ての偏見や不具合は感情の揺ぎから生じるものだと思っています。つながりを意識的に維持したいと、人は出来るだけコンフリクトを避けて、互いのことをよく理解した上で和解します。心底からケイベツさやイヤミが孕むと、放置しがちになります。それは距離を引く始まりとなります。

「劉さん、子供っぽいことを言いますね」と言いたくなりません?

多分、私はみんなが好きじゃなくなりつつあります。

みんなからパワーがもらえないと、本当に疲れちゃいます。

2017年3月15日 図書館にて

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